大きなお腹を抱えたジェシカがあんまり息せき切ってやってくるものだから、何事かと思ったら、彼女は昔と変わらぬくりくりとした目を輝かせて、雪が降っているの、と言った。
見た目は随分女らしくなったのに、相変わらず強引なところの抜けない彼女は、僕の腕をぐいぐいと引っ張って外に連れ出そうとした。
旦那はいいのかと茶化し半分で聞けば、とっくに知らせているわと惚気られた。
ごちそうさまと呟いたのをしっかり聞き取られ、頬を染めながら叩かれつつ出た外界では、確かに雪が降っていた。
彼女やシップの人たち、いや、この星の人々にとって初めての雪は、半分シャーベットのようになってぼたぼたと重そうに降っていた。
降っていた、というよりは、落ちてきたと言った方がいいのかも、というような、粒の大きい雪。
だけど、あの日の、消えない雪を思い出すには寧ろ好都合で、僕は外に出てきたことを後悔した。
途切れることなく降り積もる雪は白くて、綺麗で、それでいて哀しい。
雪なんて嫌いだ。
「トンガリ、賭け、せぇへんか?」
ベッドの上で気だるげに煙草を吸っていたウルフウッドが、突然そんなことを言い出した。
元々猫のような性分の彼のことだから、また何か気まぐれを起こしたんだろう。
「何を賭けるの?」
先ずは内容を聞いてから、と思ってそう聞けば、ニヤリと笑って親指で自分自身を示した。
「ワイ」
その台詞に、僕は思わず目を瞬いた。
「それじゃあ賭けにならないよ。だって、キミは僕のものだろ?」
「何を言うとんのや。ワイはワイのもん。躯許した位で自分のもん扱いされたら適わんわ」
しれっとした顔で言うのが憎らしい。
「このっ・・・・・・じゃあ、何?キミはあれ?特定の相手じゃなくても男に足を開くんだ?」
悔し紛れにそう言ってみても、返ってくるのはなんとも淡白なお言葉だ。
「金になるならな」
「僕からはお金取ってないだろ」
「オンドレからはな。せやけど、ビジネスの一環なんは変わらん」
あくまでも、全ては金の為だと言い切る彼が嫌で、義手で彼の首筋を引っ掴んでベッドに押し付けた。
彼が、本当はそんなことの為だけに躯を許す男ではないと知っている。
僕が彼に最初に触れたとき、彼は苦しそうにしていた。
それは、躯にかかる負担どうのこうのというよりは、精神的なもの。
何か苦しい記憶でもあったんだろうと思う。
それでも、彼は僕が触れることを許した。
それくらいには、想われている筈だ。
だって、彼は僕が本当に苦しくて、自分を止められそうに無くなった時、優しい声でずっと呼びかけてくれたんだ。
なんとも想っていない人間に、あれ程優しい声をかけるなんて、出来る筈がない。
だけど、彼はそれを認めない。
それが悔しい。
「どう、するんや?・・・・・・賭け、すんのか、せぇへんのか。それとも、このままワイをっ縊り殺して・・・・・・はっ、躯だけでも、手に入れるか?」
途切れ途切れに吐き出されるウルフウッドの声。
どうやら無意識のうちに僕がウルフウッドの首をぎりぎりと締め上げていたらしい。
この義手は性能が良すぎて、僕の精神状態を如実に顕すから困る。
殺してしまいたいわけではないんだ。
ただ、本当に悔しかっただけ。
「ごめん、ちょっと力を入れすぎた」
慌てて手を離してやったら、思い切りごほごほと咽ながらも、喉を鳴らして嗤った。
「く、くく・・・・・・なんや、楽にしてくれるんかと思うたわ」
「楽になんて、なる気ないくせに」
いつだって、自分の守るものの為にならどんな苦痛も耐えてしまうくせに。
「そうや。ワイはまだ死ねん。せやから、オドレのもんになる訳にもいかんのんや」
「だったら、何で賭けなんてするのさ」
変に期待なんて持たせないでくれよ。
僕は馬鹿だから、目の前に垂らされた餌が手に入らないのを判っていても、縋ってしまう。
「もし・・・・・・もしな、ワイが死ぬまでに雪が降ったら、考えてもエエか思うただけや」
何時に無く静かな声でウルフウッドは言う。
本気を感じさせる声。
しかし僕は、ウルフウッドの口から飛び出た珍しい言葉に、情けないくらい見事に裏返った声を出してしまった。
「ゆ、雪?キミ、雪ってどういうものか判ってるの?」
僕だって、シップのライブラリで見ただけで、本物を見たことはない。
しかし、ウルフウッドは馬鹿にするな、と言いたげな目線で僕をちらりと見た。
「孤児院にある絵本の中で、一つだけ雪の描いてあるやつあってな、白くて、綺麗で、こんなもんが本当に空から降ってくるんかって、不思議に思っとった」
煙草を灰皿に押し付けてそう言いながら、ごろん、と仰向けになって自分の腕を目許に当てる。
何かを、思い出そうとするときの仕種。
キミは今、何を見ているの?
やがて浮かべたのは、自嘲の笑み。
目許に当てていた腕を持ち上げて、頭上に翳す。
「あんな白いもんに優しく包まれたら、いくら血で汚れきったワイの躯でも、少しは綺麗になるんちゃうかっていう気せぇへん?」
ああ、嫌だ。
彼がこの姿勢をとる時は、大抵自分のことを汚いと言う。
彼の手が汚れてしまったのは、彼の所為ではないのに。
じっと自分の手を、そこにこびり付く彼だけに見える紅い罪の証を見つめる姿が痛々しくて、僕は出来ることなら本当に彼の上に雪を降らせたいと思った。
でも、どんなに憧れても、無理なものは無理だ。
「雨も降らないこの星で、雪なんか降るわけないじゃないか」
「そういうもんなんか?」
どんなものかは知っていても、どうやったら降るのかはやっぱり知らなかったらしい。
でなければ、そんな無茶なことは言ったりしないだろう。
だが、彼は一言の訂正も無く、あっさりと言い切った。
「ま、なんとかなるやろ」
「ならないよ!そんなに簡単なことじゃないだろ」
「だから、ワイを賭ける価値あるんやろが。オンドレも、口先ばっかりやないって証明したいんやったら、気張りや」
どうやら、譲る気は一切ないらしい。
こうなったらとことんまで強情な彼だ。
結局彼を手に入れる為には、僕が頑張るしかないらしい。
「ちぇっ・・・・・・判ったよ。じゃあ、雪が降ったらキミは僕のものね。それで、雪が降らなかったら僕はどうしたらいいの?」
半分やけっぱちになりながら、僕が賭けるものを聞く。
彼は暫し考えるような素振りを見せて、ちらりと僕を見、そして、ふ、と笑んだ。
寂しい笑みだったような気がする。
けれど、え、と思った直後には、彼はまた質の良くない笑みを浮かべていた。
「そやな・・・・・・ワイの記憶。オドレが負けたら、ワイのことは一切忘れる。これでどうや?」
「そんなの無理だよ!」
「やるんや。ええな?決まりやで」
強引に彼はそう決め付けて話を打ち切ってしまった。
僕には話を無かったことにする暇も、賭けの内容を検討させる暇も与えられなかった。
これで僕は益々負ける訳にはいかなくなったわけだ。
だって、彼を忘れるということは、この数年間・・・・・・いや、一緒にいた時間は一年にも満たないけれど、彼と過ごし、彼に与えられたものと、彼を大切だと思った、その心さえも捨てるということだから。
そんなこと、出来る筈はない。
絶対に、キミに雪を見せてやろう。
そう、強く誓ったのを今でも克明に覚えている。
空からそれが、はらり、はらりと落ちてきた時は、本当に神様がいるんじゃないかと思った。
白い、白い、雪。
紙で出来た偽りの。
でも、雪だ。
ウルフウッドが泣いている。
この、滅多に弱味を見せない男が、なんの躊躇いも無く涙を流している。
キミが本当に見たかったのは、この雪?
あの時、ほんの短い時間の中で思い浮かべて、そして諦めたのはこの雪のことだったの?
だとしたら、賭けは僕の勝ちだ。
「賭け・・・・・・覚えてる?」
この期に及んで、忘れたなんて言わせないよ。
そう、言葉に込めて、聞く。
それでも、彼のことだから、しらばっくれるんじゃないかとひやひやしながら待った返事は、肯定。
「・・・・・・ああ、覚えとる」
「僕の勝ちでしょ?」
「アホ言いな・・・・・・雪とちゃうやろ」
「雪だよ。キミが、本当に欲しかった雪。そうだろう?」
「ちゃう・・・・・・」
苦しそうに否定する。
だけど無駄だよ。
そんな、泣き掠れた声で言われたって、誰が信じるもんか。
「ダメ。キミの負け。たった今からキミは僕のものだよ」
「そんなん、あかん。ワイのことなんぞ、忘れぇ。こんな罪深い・・・・・・」
ああ、ほら。
やっぱりあの時、キミは自分が死ぬことを覚悟していたんだね。
だからあんな一方的な賭けを持ち掛けた。
だけど、全てはキミの思惑とは反対に動いたよ。
「キミを忘れるなんて、出来る訳ないよ。キミという奇跡のような命を無かったことにするなんて、そのほうが罪だ」
ウルフウッドは何も言わない。
僕が歯の浮くような台詞を言ったから、照れているのかもしれない。
前から、優しい言葉を掛けられるのが苦手な男だった。
「僕のものになってくれるよね?」
「・・・・・・しゃあないなぁ」
確認のように再度問えば、ややあってから、苦笑混じりの応え。
その応えに、僕は嬉しくて、哀しかった。
「その心も、躯も、命さえも、僕のものだよ。判ってる?」
「判っとるて」
どこまでも優しい声で、『YES』と言う。
それは、何度聞きなおしても、同じ。
「ホントに?」
「ん」
嘘。
僕には判っているんだよ。
キミが優しい声をする時は、僕がどうしようもなく苦しいときか、優しい嘘を吐くときなんだ。
今だってそうだ。
キミは僕との約束なんて、簡単に反古にしていってしまうつもりなんだろう?
がつん、という音と共に転がってきた何かが足に当たった。
ほらね、やっぱり。
「ウソツキ・・・・・・」
思わず零れた言葉は、受け取る相手もなく、鳴り響く鐘の音に絡めとられて何処かへ飛んでいった。
空からは、相変わらず雪が降り続けている。
もう、それを望むものはいないというのに。
「は・・・はは・・・・・・う、くぅ・・・ウルフ、ウッドぉ・・・・・・」
最期に笑えと言ったキミ。
その通りに笑おうとしたけれど、上手くできやしない。
こんなに胸が潰れそうに痛いのに、笑えだなんて、残酷だよ。
でも、そうやって感傷に浸っている時間すら僕には与えられなくて、異形の船を睨みつけて僕は立ち上がった。
「ヴァッシュー、真っ白け〜!!おじいさんみたい」
頬を高潮させた子供が僕を指差して笑った。
いつの間にか、僕には雪が降り積もり、本当に真っ白になっていた。
何の穢れも無い。
そんな印象を抱かせる白という色に包まれている。
自分のことを汚いと言うキミが、包まれたいと言ったのは成るほど、こういうことかと何となく納得した。
『白くて、綺麗で・・・・・・』
キミの声が甦る。
白くて?綺麗で?それで全てのものを優しく包んで?
だけど・・・・・・だけど、どんなに包まれたって冷たいだけで、ちっとも温まりやしない。
やっぱり、雪なんて大嫌いだ。
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